合格者 参考作品集
当塾からの合格者の作品集(抜粋紹介)です。本ページの掲載作品の半分以上は、ほぼ初心者から受験対策を初め、最終的に質の高い作品制作ができるように成長した例です。指導効率の良い個別授業だからこ実現できる受験対策です。
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課題:与えられた作品を鑑賞し、「絵画と写真の違い」について論じてください。
David Hockney : Place Furstenberg, Paris, August 7,8,9, 1985 #1, 88.9 x 80 cm : sai.msu.su
この作品はパリの街角の写真を用いたものだとうかがい知る事ができるが、まず鑑賞する時点で気になる事はべったりとした奇妙な空間感覚だ。
これは写真では起こり得ない感覚だ。広角レンズで撮影された写真は被写体のパースがどこか一点に収束され、吸い込まれるような遠近感がある。しかし、このフォト・コラージュ作品はそれぞれの建物のパースが方々に飛び散っている。全体を俯瞰で見た場合には一見、パースが一点に収束されているように見えるために実際にある空間と異空間のちがいに惑わされる。素直に鑑賞しようとするとデイビット・ホックニーの意図の下、からかわれているような、または喉に小骨が引っかかったように違和感のある風景だ。
その違和感を更に加速させるのが1枚1枚の写真が撮影されたであろう状況の違いだ。分かりやすい要素としては時間帯・天気などであるが、壁にある落書きが存在したり壁面が風化しているものとそうでないものがある点から推測するに、長い期間をかけて撮り続けた写真なのかもしれない。
建物の隙間に覗く青空と曇り空。しかし、建物から漏れる黄色い光は夜の空間に投げかけられたものだ。建物の色合いも晴れた空の写真のものと随分と違うが、曇り空の光源にくすんで見えたり晴れの日の光源のもとで白く見えたりしているのかもしれない。
写真の機能は、その空間にある遠近感・構図・色彩などを写しとることだ。絵画の機能はどうだろうか。絵画はカメラが誕生する以前、現実を写す役割を担っていた。絵画は色彩や形状、構図は製作者の意図により自由にデフォルメする事ができるが、現実にちかい写実的な表現をする事もできる。
しかし絵画は完成までの過程に人間というフィルターが加わる。これにより、より写実的であっても多少の事実を捻じ曲げる事も出来てしまう。写真は被写体をいくらセッティングしようが、現実をそのままに写し取るという機能からは逃れられない運命となっている。
このフォト・コラージュ作品は、写真での表現における制約ともいえる要素を、いわば絵画的な表現によって壊している。垣根が取り払われることによって写真と絵画の違いが曖昧になり、写真の持つ、現実へのある種の誠実さは失われた。
写真では切り取った一瞬の「前後の状態を推測させること」で表現する時間の経過を、ひとつの画面で一見一枚の写真作品であるようにビジュアライズさせる事に成功しているが、デイビット・ホックニーのフォト・コラージュ作品は絵画としてカテゴライズするべきかというと、そうではない。
彼のフィルターを通した絵画だとすればその見解は限りなく曖昧で、本来写真の持つべき緊張感を取り払い、絵の具のように使うという驕りが見える。複数の写真の切れ端を一枚の写真のように見せてしまうという行為を鑑賞者へのからかいか、これを写真の機能へのアイロニーとして見ることが出来るかが鑑賞者への裁量に任せられている。
これは写真では起こり得ない感覚だ。広角レンズで撮影された写真は被写体のパースがどこか一点に収束され、吸い込まれるような遠近感がある。しかし、このフォト・コラージュ作品はそれぞれの建物のパースが方々に飛び散っている。全体を俯瞰で見た場合には一見、パースが一点に収束されているように見えるために実際にある空間と異空間のちがいに惑わされる。素直に鑑賞しようとするとデイビット・ホックニーの意図の下、からかわれているような、または喉に小骨が引っかかったように違和感のある風景だ。
その違和感を更に加速させるのが1枚1枚の写真が撮影されたであろう状況の違いだ。分かりやすい要素としては時間帯・天気などであるが、壁にある落書きが存在したり壁面が風化しているものとそうでないものがある点から推測するに、長い期間をかけて撮り続けた写真なのかもしれない。
建物の隙間に覗く青空と曇り空。しかし、建物から漏れる黄色い光は夜の空間に投げかけられたものだ。建物の色合いも晴れた空の写真のものと随分と違うが、曇り空の光源にくすんで見えたり晴れの日の光源のもとで白く見えたりしているのかもしれない。
写真の機能は、その空間にある遠近感・構図・色彩などを写しとることだ。絵画の機能はどうだろうか。絵画はカメラが誕生する以前、現実を写す役割を担っていた。絵画は色彩や形状、構図は製作者の意図により自由にデフォルメする事ができるが、現実にちかい写実的な表現をする事もできる。
しかし絵画は完成までの過程に人間というフィルターが加わる。これにより、より写実的であっても多少の事実を捻じ曲げる事も出来てしまう。写真は被写体をいくらセッティングしようが、現実をそのままに写し取るという機能からは逃れられない運命となっている。
このフォト・コラージュ作品は、写真での表現における制約ともいえる要素を、いわば絵画的な表現によって壊している。垣根が取り払われることによって写真と絵画の違いが曖昧になり、写真の持つ、現実へのある種の誠実さは失われた。
写真では切り取った一瞬の「前後の状態を推測させること」で表現する時間の経過を、ひとつの画面で一見一枚の写真作品であるようにビジュアライズさせる事に成功しているが、デイビット・ホックニーのフォト・コラージュ作品は絵画としてカテゴライズするべきかというと、そうではない。
彼のフィルターを通した絵画だとすればその見解は限りなく曖昧で、本来写真の持つべき緊張感を取り払い、絵の具のように使うという驕りが見える。複数の写真の切れ端を一枚の写真のように見せてしまうという行為を鑑賞者へのからかいか、これを写真の機能へのアイロニーとして見ることが出来るかが鑑賞者への裁量に任せられている。
「武蔵野美術大学 芸術文化学科」「多摩美術大学 芸術学科」編入学試験合格者が受験対策として制作した作品鑑賞小論文です。美大受験生らしい独創性が、芸術に対する高い作品鑑賞眼と分析力、それを的確に論じる文章力で発揮できている秀作です。
一般大学と異なり、美大受験で重要視されるのはあくまでも「独創性」。どこかの評論家が語っているような一般論的・知識的な分析は美大では高く評価されません。この文章は独自の着眼点が素晴らしく、美大受験の作品鑑賞文の模範的な条件を備えています。
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